かけがえの無い日常(の屁)に想いを馳せる

少しみなさんと屁の話をさせて頂きたい。
いやだよ。林田とは屁の話をしたくないよ。という方は読むのをやめ、そっと友達を解除してほしい。なぜなら私はこの先も多分数年に1度位の頻度で屁の話をするつもりだからだ。そして私はみなさんとこれからも気負わずカジュアルな気持ちで屁の話をしたいし、そういうことができる関係を友達と呼ぶべきだと私は思っている。
心配しないでほしい。余程不快な表現は出てこない。あくまで事象としての屁の話をするつもりだ。
では始めよう。

私は最近家で屁をする。

当たり前と思う方もいるかもしれないが、私は最近まで家で屁をしなかった。妻がいるからだ。妻の前では屁をしたくない。
私も一人暮らしが長かったので、それまでは普通に家でブーブー屁をしていた。一人暮らしであれば家で屁をすることは普通だろう。ただ妻と結婚してからは変わった。妻は私よりも家にいる時間が長いので、私は家で屁をすることがめっぽう減った。たまにうっかり尻が緩んでプッと屁をアウトプットしてしまうこともあるが、その時は妻に「今の気付いた!?どう!?聞こえた??聞こえんかったろ!?」と問うのだが、妻は心底嫌そうに「聞こえてないよ」と言ってくれる。またはその質問自体を無視してくれる。そんな日々だった。それが最近変わったのだ。私は家で屁をするようになった。しかも積極的にだ。

本格的に屁の話に入る前に、状況が人を育てるという話をしておきたい。
私も今や二児の父。まだまだ細く心許ない柱ではあるが、一家の大黒柱であることに変わりは無い。家族を養っていくために、苦労をさせないために、少しくらいは贅沢をさせてあげられるようにと日々仕事に励んでいる。私は現在、主にレンタルサーバーに関連する仕事を行っている。余談だが最近のロリポップ!はそもそものサーバー集積技術の錬成、コンテンツキャッシュ機能の搭載などもあり、WEBサイトの表示速度が極めて早くなった。以前のロリポップ!のイメージしか持ち合わせていない読者諸君は、一度騙されたと思ってお試し申込みをして使ってみて頂きたい。その表示速度と、相変わらず業界屈指と呼び声高い優れた管理画面のUI/UXに、再びロリポップ!の虜になってしまうこと請け合いだ。ロリポップ!で満足できないコアな諸君にはロリポップ!マネージドクラウドという、サーバーサイドエンジニアでなくても気軽に利用ができるオートスケールのサーバーサービスを提供しているので、こちらも是非触って頂きたい。なんと年内無料。ペパボの懐の深さにはいつも感服してしまう。彼らほど真摯で愚直にレンタルサーバーに、技術に、そして子供達の未来を支えるインターネットというインフラに対し、向き合った会社があっただろうか。私はそのような会社をペパボ以外に知らない。
少し感情的になってしまったが是非「マネクラ」で検索してみてほしい。情報が整理され非常に親しみやすいデザインであしらわれたサイトが迎えてくれるので、安心してお申込み頂きたい。繰り返すが年内は無料だ。
閑話休題、状況が人を育てるとはよく言うが、元来会社にいても本当に全く仕事をしなかった私が、最近は割と一生懸命仕事をしている。これも二児の父親であるという状況が、私にそうさせているのかもしれない。念のために伝えておくが仕事をしていなかった話は聞き流してほしい。特に昔の会社の同僚や上司は怒らないで読み進めて頂きたい。

さてそろそろ屁の話に戻りたい。
妻の前で屁をしないため家庭内での屁数(へかず)がめっぽう減っていた私だが、最近家庭内に私の屁を喜ぶ存在が現れたのである。娘だ。2歳になる娘は最近加速度的に賢くなってきており、感情表現も非常に豊かになった。好きなもの、嫌いなもの、楽しいもの、楽しくないものなど彼女の中で色々な事柄に対し整理が進んでいることを様々な状況で感じ取ることができる。そんな娘が「好きなもの、面白いもの」に整理分類したものの中に、「父の屁」がある。
ある日娘と風呂に入ろうと脱衣室でしゃがんで娘の服を脱がせていた時のことだ。既に子育てをご経験された諸先輩方、今まさに子育て真っ最中の同輩の皆様には当たり前の事実だとは思うが2歳児というのは1秒たりともじっとしていない。服を脱がせるときなど軟体動物よろしく体をぐにゃりぐにゃりとよじらせてどうにか服を脱がせまいとする。タコだ。タコの服を脱がせようとしている様子を想像して頂ければ概ね認識がずれることは無いだろう。ただそのタコは10kg以上もある大物であることを付け加えておかねばならない。アスリートではない一般的な35歳の私はそんな大物の軟体動物に対し毎度手を焼く。私がもし何らかのスポーツで名を馳せているアスリートであれば35歳という齢でもおそらくこの軟体動物に対して手を焼くこともなく風呂に入る準備を進めることができただろう。しかし私はただの35歳。しかも林田である。大物の軟体動物と化した娘に対し、「ほら!たっちして!たっち!あーもう!ほらほら!あ、ちょっと!ほら!たっちし、あー、あーほら!ぐにゃってしないで!あーちがうちがう!ぐにゃってしない!ほらたっち、そうそう。たっちしてて、そう、じっとしてね、はいばんざーいちがう!ほら!ちがう!ぐにゃってしない!ばんざいしながらぐにゃってしない!ぐにゃってしないよ!ね!?ほらたっち!」と言ってしゃがんだ状態でタコ娘を持ち上げて立たせようとしたのだが、その時である、「ブッ!」と屁をアウトプットしてしまったのだ。誰が屁をしたかおわかりだろうか、私である。もう一度言おう。軟体動物と化した娘の前で「ブッ」と屁をアウトブットしたのだ。すると軟体動物だった娘がスーッと人の子へと戻り、私の目をしっかりと見つめ、にやりと笑った。そして少し口角を上げると小さく「ブーッ」と言った。そして次の瞬間「ブーッ♪」「ブーッ♪」と娘は嬉しそうにブーブー言い出した。無論私も嬉しくなり、リクエストに応えてその後二度程屁をした。娘はとても喜んだ。さらっと書いたが私はリクエストに応え2度程屁をしたのだ。最初の1回は不慮の屁だったが、続く2回は積極的な屁だった。

そういえば、の話になってしまうが、
人前で極的に屁をするのは恐らく初めての経験では無かったか。子供の頃から学生の頃まで、実家で暮らしていた時も家族の前で積極的に屁をしたこは無かったように記憶している。ちなみに父はしていた。ちろん家族以外の人前で屁をすることなんてまず無い。地元の連中と居酒屋で飲んでいて焼酎のボトルが2本目に入り、いろいろと面倒になったときくらいしか人前で屁などしない。しかもそんな時は積極的にでは無く、やむを得ずだ。消去法でやむを得ず「人前での屁」を選択している。私は普段地元では経営者と公務員の2人の幼馴染と3人で飲んでいるのだが、2人も同じだ。焼酎が進むと屁をする。いい年をした大人が恥ずかしげもなくブーブーと屁をする。みっともない。
上で説明した状況ではじめて積極的に人前で屁をしたことで私の中で何かが目覚めた気がした。強いて言うなら「もうひとりの私」が目覚めた。そんな気がした。

断っておこう。
私は紳士である。そう自認しているし、日頃から努めてそう振る舞おうと心がけている。おそらくそれは同年代の男性に比べ、失礼、現代においては紳士イコール男性という表現は良くなかった。訂正をさせてほしい。同年代における他の方々よりも積極的に紳士的に振る舞っているという自負がある。紳士的に振る舞おうと心がけていることにいくつか訳がある。いつまでも妻から愛される夫でありたい、娘に対し紳士的な男性とは何かを教えたい。そして、5ヶ月前に誕生した息子から尊敬される父親になりたい、叶うことならば彼が目指してくれるような、模範となる父親となりたいなどの理由がある。もちろん家族と離れて1人の男性としている時も同様に、35歳という年齢の男性としてそれ相応の落ち着きと態度、判断と行動を以て社会と関わることを意識している。つまり私は紳士である。厳密に言うと、紳士的であろうと心がけて生活をしいてる。そんな紳士がなぜ積極的に屁をするようになったか?読み進めて頂きたい。

では今回の話で一番大事な部分に触れよう。
短文の日記を書き留める程度の文章で済まそうと思っていたが意外にも長文になってしまい、いささか筆持つ手が疲れてしまった。そろそろ本題である「最近家で積極的に屁をする」ことについて皆様に報告(?)をしておこうと思う。
ここまでの説明で勘の良い皆様はお気付きかとも思うが、私は娘を喜ばせるために積極的に屁をするようになったのだ。だがしかし、これが意外に難しい。妻には屁を聞かれたくないが娘には聞かせたい。ジレンマである。もし私の屁が無限であればシンプルに事は解決する。妻がいない、私が娘と息子といるときのみ屁をすれば良いのだ。
だが現実はそう甘くはない。多くの人にとって屁は有限である。それが娘を喜ばせるために屁をするということのハードルを上げている。そうそうタイミング良く、妻は聞こえないが娘は聞こえるという状況で屁をしたくなることが少ないからだ。そうすると何が起きるか、屁をしたくなったとき、「今はして良いときかな?だめなときかな?」ということを考え、OK、屁をしても良い。もしくは、NG、屁をしてはならない。と判断をするようになる。
付け加えておくと、この判断が非常に危うい。普段私は家ではそれなりに幸せに暮らしている。家族4人共仲がよい。ありがたいことだ。なので家では常にふわっとした思考で過ごしている。もちろん飲酒をしている時もある。そんな中、急な屁意(へい)が私を襲い、いきなり判断を求めてくるのだ。正確な判断のうえ屁を、する、しないをすみやかに決定しなければならない。危うく判断を誤り妻の前で屁をしそうになってしまうことがある。というかしてしまっている。もう私は気付いている。している。言い訳はもうできない。しているのだ。妻の前で屁をしてしまっているのだ。この状況がこの文章のタイトルでもある。これこそが「最近家で屁をする。」ということの正体でもある。私は今から恐ろしいことを言うが驚かずに聞いてほしい。私は今、妻でさえ私の屁で喜んでくれるかもしれないと思い始めている。ぞっとする話だ。私自身は妻の前で屁はすべきでないと理性を以て判断をしているのだが、もしかしたら私の尻は違うのかもしれない。私の尻は私の判断を受け入れず意図的に誤った判断(屁をする)をしているのかもしれない。その尻の思考に私自身も侵されてきているのかもしれない。考えれば考えるほど寒気がしてくる。
さらには会社でも当然屁意(へい)に襲われるのだが、今その会社での屁意に対する判断も非常に危うくなっている。ここは上で延べた今非常に一生懸命仕事をしていることとも関連をする。とても集中をして仕事をしているので、屁意に対する判断に思考のリソースを割くことが難しくなっているのだ。家の中とはまた別の理由で判断が鈍っている。だが安心してほしい。まだ今のところ会社では屁をしていない。しかし油断は出来ない。いつ屁の神様の気まぐれで急な屁意がやってこないとも限らない。いつの時も油断は禁物である。いついかなる場面でも私の尻は油断することを許されてはいないのだ。しかしその尻が今、私を裏切ろうとしている。

そして、これから話すことこそ皆さんが感じていた違和感の本質なのだが、
「娘を喜ばせるために屁を聞かせる父」という存在の是非について明らかにしておく必要があるだろう。避けては通れまい。
娘に屁をきかせる父は果たして紳士と呼べるだろうか。しかも放っておくと、あと1年半後には「娘と息子を喜ばせるために屁を聞かせる父」へと昇華してしまう。息子の名誉の為に断っておくが、5ヶ月になる息子は姉に比べて非常におとなしく、泣くことも少ない。まだやっと寝返りをしようかという頃だがその眼差しの強さ、物怖じしない様子から林田の中でも異質な、落ち着いた雰囲気の林田を感じさせる。そんな息子が果たして父の屁で喜ぶようになるのかはまだわからないが、根も葉もないことを言うと本質的には彼も姉と同じ林田なので恐らく父の屁で喜ぶようになるのではと思っている。もしならなかったらその時は彼に謝ろう。便宜上此処から先は息子も父の屁で喜ぶようになる、という前提のもとで話を進める。

状況が人を育てるという話をした。私は本当にそう思う。
そのうえで「娘と息子を喜ばせるために屁を聞かせる父」の存在の是非を改めて確認したい。これはこれまでの話から考えると間違いなく是なのだ。なぜか。私は状況に育てられることで一家の大黒柱として家庭を支えることに労を惜しまなくなり、また社会では努めて紳士的に振る舞うようになった。それと同様に家庭では「屁をする父」を演じなければならないのだ。状況がそうさせるのだ。逆に考えるとわかりやすいかもしれない、娘は相当なおてんばだ。息子も今はおとなしいとは言え、やがてはつらつとした少年になり唐突にうんこなどと言い出ようになるだろう。妻だって口数こそ少ないが明るい性格でユーモアもある。そして私である。そんな家庭から「屁」の話題だけが逸脱しているなんて光景が考えられるだろうか。そのほうが違和感がある。つまり、明るく笑いの耐えない家庭の日常には「屁をする父」の存在が必要なのだ。
幼い子どもたちは父の屁で笑い成長する。やがて小学校に入学し、残りの学校生活が短くなる頃には父の屁を嫌がるようになるだろうか、さらにしばらくすると父の屁など無関心になるかもしれない。しかし最後は父の屁を懐かしく思うようになるのだ。

私達はいつも何気ない日常を過ごしている。
何気ない日常の大切な時間を積み重ねている。旅行、お誕生日、入学式、遠足、卒業式などのイベントは非日常なのだ。だが、数年経った後に思い出されるのはこれらの非日常である。しかし私達が普段過ごしている膨大な時間は、後になると思い出すことすら難しくなってしまうこの何気ない日常なのだ。そのことを考えると少し寂しくなってしまうが仕方ない。そのようにしないと我々が記憶できる容量では追いつかないのだろう。もしくは日常の全てを記憶しているとまともな精神状態を保てないのかもしれない。忘れることで心を保とうとするのだ。
「父の屁」は彼らに対して何ができるだろうか。
彼らはこれから様々な経験をすることで多くの非日常の記憶を積み重ねていくだろう。もちろん楽しいことばかりでは無いはずだ。人間関係で躓くかもしれない、受験に失敗するかもしれないし、もしかしたら大好きな人から振られてしまうかもしれない。そういったネガティブな非日常に直面し、その体験と記憶、感情が彼らを支配する時、彼らはどうやって立ち直るだろう。まだ成熟しているとは言えないその脆弱な精神で、彼らは一体どうやって立ち直ろうとするだろうか。

私は確信している。
その時彼らの立ち直るきっかけとなるのが、普段何気なく過ごしてきた日常であり、父の屁なのだ。家に帰って私の屁を聞き、非日常から日常へと還るのだ。日常に還ることはネガティブな非日常を薄めてくれる。何気ない大切な時間にゆっくりと浸り、家族で食事をし、会話をする。そうしてネガティブな非日常を薄めきったら、心を落ち着けてしっかりと前を向き、また新しいチャレンジへと一歩踏み出していくのだろう。
家で屁をする父というのは、これから成長をして様々な困難に立ち向かい、幾多のチャレンジすることになる子どもたちにとって必要な、かけがえのない大切な日常の一欠片なのだ。私はそう確信している。

その確信を以て最後に今一度言っておく。「私は最近家で屁をする。」

という屁の話を、先週末に妻と子どもたちと予防接種で小児科に行った時に置いてあったおしり探偵の絵本を読んでいたら思いついたので書きました。
以前から仕事は一生懸命しますし家で屁などしません

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