新天町倶楽部で早めのランチをとっていた。
午前11時半前のことだった。
この時間の新天町倶楽部はまだ人もまばらで、俺と同様に早めのランチをとる連中が静かな時間を過ごしていた。
カツ丼大盛りミニうどんセットを食べ終えようとしていた頃、唐突に松谷卓の「いま、会いにゆきます」が流れてきた。
松谷卓の「いま、会いにゆきます」とは、同名の映画に使用された挿入曲である。名曲だ。
松谷卓の代表作と言えば「劇的ビフォーアフター」の2曲だろう。
オープニングの住みにくい家を紹介する際に流される不穏な空気感を見事に表現した奇作「Inscrutable Battle」
改修後の住みやすくなった(あるいはさらに住みにくくなった)家を紹介する時に流れる安心ややすらぎを強要する怪作「匠」
劇的ビフォー・アフターに採用されたことで松谷卓は有名になったのではとも思うが、劇的ビフォー・アフターと関係を持たなければもっと違った(大抵の場合良い方向で)キャリアになっていたのではとも思う。
前置きが長くなったが松谷卓の作る音楽は基本的に非常にわかりやすく、とても良いということを伝えたい。
さて「いま、会いにゆきます」である。
「いま、会いにゆきます」は小説をきっかけとしたメディアミックス作品だ。
小説、映画、ドラマといくつか作品が展開されたものと記憶している。
松谷卓の挿入曲が採用されているのは映画版の「いま、会いにゆきます」である。
この「いま、会いにゆきます」は死んでしまった妻、残された子から見ると母親が梅雨の間だけ戻ってくるという話。
梅雨が明けてしまうと再び消えてしまう。
そんな限られた時間を家族3人で大切に過ごし、やがて訪れる別れの時間、妻が再び消えてしまった後の話を描いた感動大作だ。
余談だが私とキャサリンも学生の頃この映画を見に行った。デートである。
そういえばあの頃は死んだ誰かが生き返る的な話が流行っていたようにも思う。
「黄泉がえり」もその枠だろう。
話を冒頭に戻すと新天町倶楽部で唐突に流れた「いま、会いにゆきます」。
流れ出した頃は多少気になった程度であったが、しばらく聞いていると妙な感覚というか、ある種の気付きが降りてきた。
これは示唆である。
そうだ。この唐突に流れた「いま、会いにゆきます」は完全に示唆している。
この文章を書いているのは2026年9月。
広く知られた事実であるが新天町倶楽部を含む新天町は2027年2月の感謝セレモニーを区切りとして全て営業を終了する。
建て替えを伴う大規模再開発のために。
当然新天町倶楽部も営業を終了する。
適切な表現とは程遠いがつまるところ食堂としての営業活動を終了するという意味での「死」である。
やがて訪れる死、残された限られた時間、そして唐突に流れる「いま、会いにゆきます」。
今ここで何気なく飯を食ってるサラリーマン風の男も、おばさんも、おじさんも、軽薄そうな若者も、厨房を担うスタッフも、みんな知っている。
新天町倶楽部がもうあと少しの命(適切な表現とは程遠いが、営業を終了するまでの時間を余命に例え“命”とした)であることを理解している。
そのうえで、普段と変わらない日々を過ごしている。そこで流れる「いま、会いにゆきます」。
そうだ。残された時間というのはこうあるべきなのだ。「いま、会いにゆきます」は20年を超えて今俺に答えを教えてくれた。
大げさなカウントダウンや、メディアでの取り上げなどいらない。
残された時間というのは穏やかで、それでいて特別で、だけれども慣れ親しんだものでなければいけないのだ。
「いま、会いにゆきます」での最後もそうだった。妻(あるいは母)が消えてしまう時、それは突然に訪れた。
梅雨明けと同時に彼女は消えてしまった。その日の朝まで昨日と同じように過ごしていたのに。
残された時間は永遠には続かない。しかしだからといってやがてくる別れに怯える必要などない。
ましてや悲観する必要などまったくない。
「いま、会いにゆきます」は残された時間の過ごしかたを我々に示してくれていたのだ。
それを新天町倶楽部で改めて気付くことができた。
新天町倶楽部が唐突に流した「いま、会いにゆきます」、それはまるで新天町倶楽部が「最後の日まで普通にしてててほしいよ。無理に頑張って来なくて良いよ」と語りかけてきているようだった。
ということで新天町倶楽部、もう少しで行けなくなるけど残された時間もこれまでと変わらずに行ったり行かなかったりしよう。週0.5〜1くらい(もう少し少ないかもしれない)で行こう。
とは言え最後は多分派手にカウントダウンすると思う。(新天町倶楽部がというより新天町が。なぜかというといつもそうだから。だしそれが新天町っぽくもあるから。)
いずれにしても今日食べたのでまたしばらく行かない。