吃音だ。中程度の。吃音と共に短くない時間を過ごしてきた。
昨日久しぶりに自身の吃音に対して向き合う機会があったので書き残しておこうと思う
サブマリン工業では会社の月1回のイベントとして、社是としている文章の読み上げがある。勤務が在宅になる前は皆で集まって唱和していた。が、在宅勤務になり一斉唱和が難しくなった。
そこでリモートで先導役が読み上げるのを追随して皆が唱和するという方法が現在試されている。今回所属する部署がその先導担当となっており、先導役として上司からステイサムさんどう?とお声掛けを頂いたのだ。
結論として、お声掛けを頂いた上司に自らが中程度の吃音であることを申告し、せっかくの指名で有り難くはあるが、その役からは辞退をさせて頂いた。指名が有り難いというのは本心だ。期待されていたのだから。
仮に先導役を受けていたらどうなったであろうか。読める文章7割、なんとか誤魔化して体裁を繕える文章1割、吃ってしまい著しい違和感が発生する文章1割、文頭の単語が全く発音できない文章1割といった感じでリモートで繋いでる全社が「いろんな意味でヤバイやつをチョイスしてしまった」と感じることになっただろうし、社内にもいるであろう他の吃音者を恐怖のどん底へ突き落としただろうし、声掛けをしてくれた上司には自責の念を感じさせてしまうことになってしまっていただろう。なにより私自身しばらく仕事が手に付かないくらいボケーっとしてしまうことになっていたと思われる。
吃音で恥をかくことはもう慣れた。これまで数限りない場面があり、人前での読み上げがあることでせっかくのチャンスに対して自ら距離を置いたことも一度や二度ではなかった。何が嫌なのか。自らが恥をかくことは良いのだが、それで他人へ気を遣わせてしまうことがなにより心苦しいのだ。辛いのだ。
これは吃音者に限らず他の障害を持って生きている人は少なからず似た思いがあるのではと感じる。自らの障害による不便や恥よりも、自らの障害により引き起こされた場の雰囲気、申し訳ないと思わせてしまった状況がなにより辛く、耐え難いのだ。が、そうならない予防線を張っておけば、どうにもならないわけではない。
例えば今回、吃音を申告した際の上司は「検討してくれただけでも嬉しい」と言ってくれた。とても嬉しかった。素敵な方だなと改めて感じた。がもし、伝えたのがヤバめの上司で「大丈夫大丈夫!やってみましょう!ねっ!」みたいな感じだったら、吃音とはなんぞやを説明したうえで、「わかりました。こうこう、こういう感じで状況が最悪な感じになると思うので、事前に皆に周知をしても良いですか?」と伝えたと思う。ちなみにそんなヤバめなことを言いそうな上司、同僚はサブマリン工業にはいない。
自らの言葉が他の皆と違うことに気がついたのは小学生低学年の頃だった。それが吃音だと知ったのは高校生で、親が私に気付かせず療育を受けさせていたと知ったのは大学生の頃だった。社会人が始まったときの電話応対の研修など今振り返ればどう乗り切ったのか思い出せない。記憶から消したいほどの経験だったのかもしれない。吃音とはもう長い付き合いになった。
もちろん妻のキャロラインにはこのことは伝えている。娘が生まれたとき、名前をアンリにするかメリッサにするかで悩んだ時、キャロラインに、俺はアなどの母音で始まる言葉が苦手だ。せめて娘の名前はスムーズに気持ちよく呼んであげたい、と告げたらキャロラインは、もちろんよ。それも素敵な理由じゃない。ではメリッサにしましょう。と言ってくれた。一部美化された記憶ではあるがそんなやりとりがあった。
あまり具体的な言及は避けるが、良い時代になってきたと感じる。いろんな生き方、考え方、容姿、障害、性別、様々なものが、その人の個性として認められる時代になってきた。もちろん自らの個性を声高に叫び、人に迷惑を掛けるのは言語道断であるが。
吃音と付き合いつつも、素敵な家族に応援されて、素敵な会社で、素敵な仲間と働けている今を心から愛している。